区切りなのだろうか

今日の午前中、オウム真理教が引き起こした一連の事件で死刑が確定していた13人のうち、松本智津夫死刑囚を含む7人が刑を執行された。
これに関して、賛否両論いろいろ出ているが、個人的には致し方ないと思う。
主な事柄が平成に起きた事件であり、平成のうちにすべての決着をつけなければならなかったのだと思うからだ。
一部に「真相究明もできないうちに死刑執行するとは何事だ」という声があったらしいが、一番の総責任者が自供する気がなく、自分の殻に閉じこもってたのでは、どうしようもなかったのでは?
松本死刑囚にとって、罪を認めて謝罪するということは、“教祖”であり“絶対の存在≒神”だった存在から“ただの人間”に成り下がるということであり、そんなこと認めるくらいならだんまりを決め込んだほうがよっぽどましだと考えても不思議じゃないと思う。要は、あの男にとっての「アイデンティティの崩壊」につながるから意地でも認めなかったんじゃないかと思う。
そういう思考回路の人間に対し、正攻法は通じない。だから、何十年経ったとしても、真相は藪の中という状態になってしまったのだろうと思う。
また、真相究明云々といっている人々の中の何割かには、それを表向きの理由にして実際は死刑制度そのものに反対という人々がいる。理由をかこつける必要ないと思うぞ。反対なら反対と正々堂々いえばよい。
私個人は、法が定める最高刑に“死刑”が存在する限り、あてはまる罪を犯したものにはきっちり適用するべきだと思う。オウムが引き起こした一連の事件では、死刑が確定した者たちは皆、適用やむなし(松本死刑囚に関しては当然)だと思っている。