ふと考えたこと

マヤ・アステカ・インカの、いわゆる中南米の文明に共通する要素のひとつに、“生け贄*1”の風習があることがある。
アステカは有名だけど、マヤやインカにもあるんだよね。
なんと野蛮な、ということは簡単だ。
でも、かつての日本だって、“人柱”“人身御供”という言葉があるように、超自然のものに対して生け贄をささげるということは行われていた。
直接記録に残っていなくても、昔話に語り伝えられていたりすることはあると思う。
よく「昔、川に棲んでいた怪物に人々が襲われて、食べられてしまったりしたが、通りかかった旅の高僧によって怪物は封じられ、川は平穏を取り戻した。怪物を封じた祠は、今も川の近くにひっそりと祀られている」なんて昔話が語り伝えられていないだろうか。
これは、“かつてこの川に祀られていた神*2に生け贄をささげていたが、仏教の布教によりそれがなくなり、それでも神に祟られるのを恐れて祠に祀り続けている”なんて場合が考えられるので。
この“高僧”が弘法大師(空海)だったりすると、氾濫を繰り返す川を当時の最先端技術を持って土木工事を行い、氾濫が起きにくいようにした、なんてことも考えられたりするけど。
意外かもしれないけど、空海は唐の最先端学問や技術を日本に持ち帰ってきた、という意味では、立派なテクノクラートなのだ。
そういう背景を考えれば、明治維新で一気に近代化した日本は、ほんの100数十年前まで神に生け贄を捧げることをいとわない精神構造が残っていたといえないだろうか。
日本人の、その心の奥底には、まだ何かが残っているんじゃないだろうか。

*1:動物も対象になったが、主に人間の場合をさす

*2:当時の神だから、容易に祟り神に変質する荒神のことが多い。川とかだったら竜神とかね